昭和47年09月10日 特別奉修委員



 本当に自分が助かると言うことは、本当に神様が、よく分かると言うこと。よく神様の実在を信じられると言う事だと思うんですよね。だから、そういうおかげを頂く事の為に、お互い、修行させてもらう訳ですけれども。自分から求めて修行する時にはね、案外、張り込んどりますけれども、不意にさせられる修行、苦しい時があります。けれども、そういう苦しみと言う時に、私は有り難いのは、これを修行と思うてと思える事だと思うですね。それが私は有り難いと思うんです。
 それがね、いよいよ、なるほど、神様ちゃ間違いないなぁ、ちょっと修行させてもらおうと思うたら、もうこんなおかげを頂いてと言う事になって、いよいよ神様が頂いてと言う事になるし。同時に、今度は、神様を本当に頂いたからと言うて、苦しむ事がなくなるという訳じゃない。例えていうなら、きついとか、眠いとかというな事は、これはどんなに神様を頂いたって、やっぱある訳なんですけれども。
 けれども、その頃の苦しさを修行で受けると言う事は、楽しい事になるですね、有り難いことになる。ですから修行例えば神様が分からんなりに修行をするということは、大変きついことだけれどもね、少し分かり出してきてから、苦しい事があったらこれを修行と思うてという時にはね、私は信心させて頂いて難儀なことやら、苦しい事やらを修行と思えれる所まで信心を頂いたら、もう大丈夫だとと思うですね。
 神様がわからんと、これだけ信心しよるのに、こういうことになって、こりゃ大したことなかばいというなことまでなるのですから。だからそういう修行苦しい時には修行をさせて頂いておると思えれる信心がね、私は神様をいよいよ頂いたことであり、いよいよより深く頂いて行くことだと思うですね。とにかく修行と思えれると言う事が有り難いですね。苦しい時には、修行と思うてという訳ですよね、おかげを頂かにゃいけません。